ヴィクトール・E・フランクル氏の「夜と霧」から得られる学びと考えをまとめます。
- この記事の対象読者
- 強制収容所での生活はどのようなものか知りたい人
- 仕事が忙しすぎて何も考えることができなくなっている人
学び1:極限状態において感情は消滅する
強制収容所は非常に過酷な環境です。
著者は極限状態における自分の感情がどのように変化するのかをはっきりと描写していました。
極限状態に陥ると、人は自己防衛のために感情を消滅する。自分の生命と仲間の生命を維持することに集中するようになる。あらゆる精神的な問題は影を潜め、あらゆる高次元の関心は引っ込み、文化の冬眠が収容所を支配する。
ここでいう高次元の関心とは、冗談や文学、詩歌など、生物の三代欲求には含まれない項目です。「文化の冬眠」。これほどピッタリな表現の仕方はないと思います。
前職で同じような感覚を経験したことがあります。深夜3時まで毎日のように働いていると、自分の感情が次第になくなっていくことがわかります。週末に友人と会い、色々とお互いの近況を語りあっても、どこか心の底で、「どうでもいい」という感情が芽生えてしまいます。感動する映画や本を読んだとしても、何も心に残らないのです。
むしろ、オフィスに行って仕事をすることで心が落ち着くのです。
この本を読むことにより、自分は当時、収容所にいたのと同じ状態だったのだなと思うようになりました。
学び2:自分の振る舞いは自分で決める
うまく行かないときに、環境のせいにしたことはありませんか?
単位のかかった期末テストの直前に、サークルの飲み会が入ってしまった。飲み会に行かないとサークルで浮いてしまう。飲み会に顔をだす。朝まで飲む。二日酔いでテストを受けるも、及第点には届かず、単位を落としてしまう。このとき、こう考えていませんか?「サークルの飲み会が入らなければ、単位を取ることができた」「先輩から誘われたのだから行かざるを得なかった」と。
そのような「環境」になったのが、失敗の原因であって、私自身のせいではない、と考えていませんか。
この本において、人は環境によってすべてを決定されてしまうわけではないと解釈しています。どんな状況でも、その状況に対してどのように振る舞うかという精神の自由だけはあります。
例えば、二日酔いの頭でも、1ヶ月前から試験対策をしておけば、普通に合格することができた、と切り替えて考えることは自由にできます。このように、自分がコントロールできるところのみに絞って考えることは、いかなる環境においても可能なのです。
典型的な被収容者になるか、収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、己の尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのです。
学び3:生きることが我々に対して期待することは何か
人生に何を期待しているのか考えたことはありますか?例えば、タワーマンションに住んで高級車に乗り、毎日を謳歌して過ごす。一度は考えた子があると思います。
では逆に、あなたの人生が、あなたから何を得ようとしているのか、考えたことはありますか?
生きる意味とは、我々が生きることに何を期待するのかではなく、生きることが我々から何を期待しているか。生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、要請を満たす義務を引き受けること
人生とは、あなたに対して何か課題を与えているのです。そしてあなたは、その課題を果たす義務があります。
その課題を常に意識することで、人は強制収容所な過酷な環境においても精神的にしっかり安定するのです。
まとめ
今回は、ヴィクトール・E・フランクル氏の「夜と霧」をまとめました。
- 極限状態において感情は消滅する
- 自分の振る舞いは自分で決める
- 生きることが我々に対して期待することは何か
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